Home匠日記2011年2011年03月月曜:秋山眞和(綾の手紬染織工房)
秋山眞和

秋山眞和

綾の手紬染織工房
綾の工芸の先駆者が今までの綾、これからの綾を語ります。

ウェブサイトURL:

綾の事始め(4)

2011年 3月 28日(月曜日) 09:00
昭和50年1月、地元宮崎での「ひむか邑」結成記念展を皮切りに 3月東京日本橋丸善本店
開催のあと、5月名古屋、6月京都、そして10月札幌と各丸善のギャラリーで巡回展を行っていった。
多士済々の賛同、後援者の広報力に加え、新しい工芸の将来像を引っ提げての若者達による工芸展はニュース性も大きく、
各会場とも連日大勢の来場者に邑人たちは昼食をとる暇もなかった事を覚えている。
04-0104-0204-03

邑人の作品は陶器や木材などの重量な物が多く、札幌展にはトラックを仕立ててフェリーを乗り継いでの行程だった。
帰りは空になったトラックに北海道の産物を仕入れて、事務局費用補填の一部に当てようとの思惑もあった。
04-04

04-05
左(川村賢次)陶器 右(秋山眞和)織

どの会場もデザイナー、教師、公務員など文化論を好む方々で連日その対応には苦労した。
だがその甲斐あってか放送新聞ほぼ全てのマスコミが取り上げてくれて「ひむか邑」の名は
作品のレベル以上に大きく知られるようになっていったと思う。
04-0604-07

単品の工芸展でなく、生活文化の供される多種な工芸品を揃えた各会場は注目されていて、
我らの主張に高い評価を示し、熱っぽい反応に期待は大きかった。

だが、活動資金を補う源の売上げは陶器を除き頭を抱える状態が続いた。
思想と現実との間隙、後々この代償は事務局運営に大きな足かせとなっていった。

事務局を努めた当工房は約一年間の全国行脚とその前の準備期間を加えすっかり体力を使い果たしていた。
昨今はこのような活動に補助金もつくようになっているが、まだその頃には行政の支援も受けていなかった
(ただ我々が知れなかっただけかも知れない)。



結果的に私にとっての一年間は文化催事以上ではなく、事務局もいつの間にかその役目を終えていた。
しかしその後、事務局を担当していた若者たちが独立して工房を興し「ひむか邑」の名を残しているのは頼もしいかぎりだ。
だが今にして考えてもあの戦争のような大騒ぎはやはり多くのものを残してくれたと思う。
あの時代であの若さであったからこそできた行動であって、その後の綾町工芸コミュニティー協議会
の発足に繋がっていった。

ひむか邑全国巡回展を知った宮崎県商工労働部が動き出したのである。
昭和52年頃から東京のラック計画研究所の前田豪氏を座長として綾町工芸コミュニティーの骨子を策定開始し
予算を組んで行政からの支援を本格的に考えてくれていた。

さて、ひむか邑設立時のメンバーを第一世代ともし仮定するとしたら、
綾町工芸コミュニティー協議会設立関わったのが第二世代、
そしてその構成メンバーのスタッフ(後に独立)が第三世代、
さらに近年綾町に魅力を感じ、技をもって物創りの場として選んだ方を第四世代とでも呼ばしてもらおう。
第二世代以降の話題は次の機会としたい。

綾の事始め(3)

2011年 3月 23日(水曜日) 09:00
話しは前後するが、「ひむか邑」創立記念宮崎展の準備開始のかなり前から「邑の事務局」を
当「綾の手紬染織工房」内に設け、各工房との打合せや広報、展示会場との連絡場として忙しい日々を送っていた。

この事務局には幸いなことに県内外から、花田拓人君(福岡県宗像出身)日髙正一郎君(宮崎県南郷出身、現玄太工房主宰)など若く優秀な人材が集まり、急に決まった全国展開に対応していた。

邑人はいつも集まってはよく飲み、そして夜遅くまで工芸論を戦わしたものだった。
工芸の将来に対し誰もが明るさだけを見つめていた頃でもあった。
03-01
(撮影:昭和49年)

全国展開に当たっては黒木進氏や井上信一氏の縁筋、人脈をフルに動員頂き、後援者には
田舎の小さな集団の展示会にしてはとても不釣り合いな中央の超一流人の布陣となった。

当時の「邑」の賛同者名簿を見ると 岩切章太郎(宮崎交通創業者)、茅誠司(元東大総長)、
小池岩太郎(GKデザイン創設デザイナー)、小池新二(元九州芸術工科大初代学長)、
宮沢喜一(元総理)、森永貞一郎(元日銀総裁)、瀬山誠五郎(元住友不動産会長)・・・・・等
錚々たる名が連なっている。
03-02

さらにそれ以前から黒木氏は美校(現東京芸大)出身の輪を拡げて、柏崎栄助(デザイナー、福岡教育大教授)、加倉井秋を(建築家、俳人)、小池新二、の三先生をことあるごとに綾町の、まだ誰も気づいていない照葉の森に案内していた。(もちろん私はアッシー君)

森のエネルギーに触れての、各先生方の感動振りはその後の各々の著書に多く語っておられた。
その後大きな話題となった照葉樹林を守る郷田町長の宣言創案に、この先生方の考えが大きな影響をもたらしていただろう事は疑う余地もない。


綾の山中での邑人 (中央左)小池新二先生 (中央右)黒木進先生(撮影:昭和49年)
03-03


綾の手紬染織工房でくつろぐ柏崎先生(中央)(撮影:昭和49年)
03-04


加倉井先生からの発注で製織した宮崎観光ホテルホールの壁画作成風景(撮影:昭和48年)
03-05

続く・・・・

綾の事始め(2)

2011年 3月 14日(月曜日) 09:00
霧島連山の噴火どころではない三桁違いのような甚大な被害がでた東日本大震災、
ただただ早い復興を祈る事しか出来ない無力さを感じる。
宮崎の災害時に多くの支援を頂いた恩返しに、少しでも何か役立つことはできないか。
身近な行動から考えてみよう。

「綾の事始め(2)」

さて 組織が曲がりなりにも出来上がれば、創作活動に集中することができる。
「ひむか邑」の同人の物創りの活動は、これといった動きもなかった当時の宮崎の工芸界にかなりのインパクトをあたえたと思う。
02-01
活動を始めた翌昭和49年、前述、黒木氏の友人で日銀出身で地元銀行の副頭取であった井上信一氏により、販路確保のため東京で邑人の作品展を開くように強く進められた。
しかし東京で発表するにはまだ自信がなく、ちゅうちょしていたが・・・、それでは先ず地元宮崎で開催してから挑戦してみようとなり、宮崎山形屋において「ひむか邑結成記念展を行う事とした。
02-02
昭和50年1月9日~16日の開催はあまりニュースの無かったであっただろう当時のマスコミにも数多く取り上げられ、たいそうな評判を得て大成功裡に終了した。当時の複数の新聞記事からその話題性を読み取ることができる。
02-04
02-05
02-06
これに気を良くした同人たちは、次の東京への開催に自信のようなものが芽生えていた。
02-07
続く・・・・・
秋山眞和

綾の事始め(1)

2011年 3月 07日(月曜日) 09:00
私がここ綾町に織物工房を構えたのは昭和41年11月の事でした。
西田等町政の助役を務めた、郷田實氏が新町長になった年でもありました。
その頃の綾町の工芸といえば、釣具店を兼ねた熊須碁盤店と俵竹刀店しか記憶にない。

その他、現在の商工会館にあった旧営林署の建物でビロー樹葉の民芸品を細々作っていたくらいかな?
宮崎からの県道も下北方町の今の大淀川学習館当たりまでしか舗装されていなかった。

当時宮崎県商工労働部主幹、黒木進氏の指導により、宮崎の新しい工芸産業興しの一翼を担うつもりの
意気込みで、今に思えば向こう見ずのような綾進出でもありました。
ただ単に手織物を創り出す工房ではなく、その当時「消費は美徳」との風潮に流されず、

人々の生活文化を見直そうとの理想を追い求めた、ある意味若気のエネルギーもあった気がします。

生活文化の工芸となると単種の物創りだけでなく、多様な物が必要となる。
「衣」の織物から始まり、次は「食」の道具・・・器の作り手がほしいなぁーとなってくる。
そこで焼き物の里福岡県小石原に目を付け、神戸出身の川村賢次氏(故人)を黒木氏
が説得して(と言うより半ば拉致状態で)綾に引っ張ってきた。
昭和46年だったと思う。

それから、北陸の山中漆器から呉藤氏、都城の関谷木工、宮崎の漆器や下川、山下両氏の木工所
なども加わり、総勢7工房にて「ひむか邑同人」として昭和48年発足した。
共同の理念に基づいた物創りに大いに燃え上がった頃でもありました。

翌年春には、物創りの環境に感謝し日本人の心を考えてみようとの理念から第一回のまつり
「まゆ祭り」を開催する事になり、多くの文化人や外国からの関心もあり、年中行事になっていった。
001002
その後この祭りは秋の勤労感謝の日に移動して、「綾工芸まつり」の源流となっていった。  (続き・・・・・