綾町とガラスの接点

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小林高校卒業と同時に日本で一番歴史のある東京の山谷硝子に入社して、
技能の習得のかたわら独学にて夜はデザイン、彫刻などの作家として独り立ちするための時間に明け暮れた。
その後、美術展に出展するかたわら山谷硝子の企業内作家として活動を強化。

単独の創作工房の必要性を感じるなか今から26年前、
歴史に残る28代薩摩藩主 島津斉彬公の業績として知られる薩摩切子復元のために、
当時の尚古集成館長の有馬氏と復元するまでの期間を契約条件として鹿児島に赴任することとなった。
薩摩切子復元を工芸部長として陣頭指揮をとり約2年間で一部を残し成功裏に新聞発表までこぎつけることとなった。

その当時、世の中は好景気を背景にした都道府県の自治体も特徴ある町づくりの為に力を注ぎガラス工芸へも注目していた。
私の行動も注目いただき全国4ヶ所から工房設立希望が相次いだ。

そんな中、宮崎県も動きだした。
当時、松形知事の薦める県の木花ハイテクパーク、綾町では前郷田町長から2ヶ所の候補地の提案、
雲海酒造の中島社長は今の酒泉の杜構想を熱く語られた。
松形知事は当時、宮崎山形屋の個展が12回続いていたこともあり宮崎にどうしてもガラスが必要と個展会場に来られては話されていた。

このようないろいろの声をいただき、工房設立の決め手になったことは、
綾町の食文化、有機栽培、照葉樹林に対する環境からの考え方、本物の物造りを生み出すエネルギーが
行政を含め綾の地に感じられることであった。
先に述べた宮崎県、綾町、雲海の考え方、宮崎県庁から30分以内の地であるという条件を満たす場所が綾町であった。

平成元年、今の酒泉の杜に私のガラス工房だけがスタート、
その後は水を得た魚のようにガラスと日本美、歴史、文化、伝統、風土、環境など今日、
憂える社会に日本人としての資質を問いかける作品を生み出して来ている。
人口7,600人の小さな町から世界のガラスの聖地ヴェネチアで展覧会の大成功。
日本の世直しとして、国際芸術文化交流として海外との交流を深める日本を代表する工房となり連日、
60名のガラス大好き人間の集団として頑張ってる。
最終更新日: 2011年 9月 04日(日曜日) 10:51
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