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「夜逃げの町 綾町」から「日本一の町 綾町」へ

1.夜逃げの町 綾町


mukashi「夜逃げの町」
かつて綾町がそのように揶揄された時代がありました。町の面積の約80%は森林です。しかし、その森林のほとんどが、国有林・公(県)有林であったことから、木を自由に伐採することができず、森林の仕事が町の基幹産業になることはありませんでした。そんな綾町は、1953年(昭和28)に始まった「綾川総合開発事業」によって、かつてない賑わいをみせます。多くの関係者が移住し、最盛期には町の人口が11,500人を数えるほどになっていました。ところが1960(昭和35)年、この事業が終わり、関係者が町を離れるようになるとともに町は活気を失い、仕事を失った町の人までもが町を後にするようになりました。こうして町の人口は、7,300人を割るところまで落ち込んでしまった時期もありました。

2.綾町の森を守る


moriこうした中、1966(昭和41)年9月、営林署から国有林を伐採する旨の通知が、2か月前に町長になったばかりであった故・郷田實さんのもとに届きました。世の中は高度経済成長の真っ只中、住宅建設や産業振興のため木材やパルプの需要が高まっており、国策としての事業を拒否することはできません。が、郷田町長は、伐採反対を訴えます。物質の豊かさのみに関心が持たれていた時代に、自然や環境を守ることを主張したのです。郷田さんの娘・郷田美紀子さんによれば、父が遠い東南アジアの戦地で生死を彷徨った時に目にした風景、それが懐かしい照葉樹林の森だったのだそうです。幾度も心に思い浮かべた故郷の山や川をいとおしむ郷土愛の一念が、森を守る運動に駆り立てた原動力だったと美紀子さんは聞かされています。

3.綾町の自然生態系農業


nougyou「モクモクした雑木の山には微生物を含め多くの生物が棲んで命の営みが行われている。」
国有林伐採に反対する運動を展開する中で、数々の勉強を通じて、「土壌」の大切さに気づかされます。そして、畑での野菜作りも米作りも、自然の生態に沿うものでなければならないという思いに繋がりました。それが「自然生態系農業」です。1988(昭和63)年、綾町は全国で初めて「自然生態系農業の推進に関する条例」を制定して、有機農業のまちづくりを高らかに宣言しました。自然の生態系をみつめた農業は当然のこととして、自然界で行われている循環型システムにも行き着きました。糞尿や残飯もすべて無駄なく、環境を汚染することなく発酵させ、肥料として用いました。これも全国で初めての取り組みです。

4.森と人を繋ぐ橋 綾町の照葉大吊橋


turibashi1984(昭和59)年、綾の森深く綾南川をまたぐ様に「照葉大吊橋」が架けられました。全長250m、川面からの高さ142mと、歩行者専用の吊り橋としては、世界一のスケールを誇りました(2006年、大分県の「九重・夢吊橋」長さ390m・高さ173mに抜かれました)。吊り橋を渡り切った向こう側には何もありません。ただ、照葉樹林の森が広がっているだけです。しかしその森は、日本一の面積を誇る貴重な照葉樹林の森だったのです。この橋を渡れば、その貴重な森に気づいてもらうことができる、それは山を守ることにきっと繋がるはずだ、そんな思いがこの橋を架けさせたのでした。

5.工芸家の集う町 綾町


craft守り残された日本一の森、これにより綾町では「照葉樹林都市」という名のもとに「生活文化を楽しむ町づくり」が始まりました。豊富な木材を生かしての木工、また織物や焼き物、そして染め物などの工芸家を優遇し、いまや40を超える工房が誕生するまでになりました。「物質文明から精神文化の時代へ。」自然に溢れ、水や空気、食べ物がおいしい町。そして文化の香りがする町。文化の原点は、かつての生活そのものであり、それは照葉樹林の森が教えてくれたことです。森を守ることは文化を守ることでもあるのです。

転載元:「綾の夢楽人」読本